流転の先に

人生は、やり残しや後悔を一つずつ拾い集めてやり直すための時間じゃない。なのに人は、人生に行き詰まるとなぜか、かつて進みたかったあの道に、かつて諦めたあの夢に、もう一度改めて挑戦してみようと思い立つ。 やり直すことで成功するのだろうか。成功はせずとも、「改めて挑戦した」という気持ちが人生を豊かにするのだろうか。

ベン・スティラーの『LIFE』を見ながら、そんなことを徒然に思った。

LIFE自体はとても好きな映画だ。妄想と現実のあわいが圧倒的スケールの映像美で描かれ、「妄想だろうが現実だろうが、自分の目で見た世界こそ全て」なんだと感じさせられ、妙に勇気がわく。

しかし、人生の岐路を自ら作り出そうとしている中で見てみたら、なんだか勇気以上の感慨を得た。

ウォルターが「ずっと一歩踏み出せずにいた自分」「あの日旅に出られなかった自分」をやり直す時、そのやり直しのゴールはショーン・オコンネルという「圧倒的な権威」からの承認に据えられている。しかも、何を承認されるかというと、やり残したまま進んだ方の、取り返しのつかない現実の人生だ。結局のところ、今までと違う何かに挑戦することは、今までの人生への肯定感を目的としているのだろうか。

それにしても、一体偶然に恵まれずショーン・オコンネルにも辿り着けずに終わっていたら、ウォルターの精神はどこに帰着したのだろう、と思う。大抵の人は、挑戦したからといって憧れの誰かになんて会えない。


「あの日旅に出られなかった自分」を、人は無数に持っている。みんな、苦悩の中で人生を終えないために必死で現在を肯定するのだが、どうかしてその先に続く未来が愛せなくなり、あの日選ばなかった道を探そうとし始める。私の友人たちも、30歳を目前にして、次々と無謀な旅に出た。漫画家になる道、女優になる道、音楽で食べて行く道、フランスで暮らす道。安定した職を捨てて、次々と大海へ漕ぎ出していく。成功したものもいれば、未だに芽の出ないものもいる。そして私も、その仲間に加わろうとしている。

私はウォルターのように、16年間も同じ仕事に打ち込み続けた経験はない。

それどころか、義務教育を終えて以来、大学を4年で卒業した以上のことは何もしていない。部活もアルバイトも2年と続かず、初めての就職先は3年保たず、思い切って大学院に社会人入学なぞしてみるも、ストーカーがどうのと言って中途挫折。ちなみに高校だって3年間通えていない。挫折するその度に社会不適合者の烙印を押されて意気消沈した。


そうは言っても、書くことだけはずっと続けている。 別に成果も出さず報酬も得ていないが、場所を変え手段を変え、ずっとこんなことを続けている。仕事でもドキュメント整備のプロになってしまった。ドキュメント軽視の風潮が未だに強いSE社会で、資料作成では常に一定の評価を得ている。

ずっと夢見ていた。いつか自分の筆一本で生きていくことを。そしてずっと挑戦を拒んできた。あまりに夢物語で人に言うのも恥ずかしかった。

今のところはまだ誰が見てくれるでもないこのブログに書くことさえ、ためらわれる。面と向かって人に言う時は、足が震え心臓が飛び出そうになる。昔からの夢に挑戦することは、今までの人生の「やり直し」ではないかも知れない。自分とまともに向き合おうとする時、それはいつでも人生初めての挑戦なのだろう。


なんだかチープに終わったな。

こんなこと書きながら、実はどこかで「仕事が3年続かなくても、何も欠陥ではないのでは?」と思っている。ここまできたら中途挫折の因縁を持って生まれた自分を受け入れざるを得ない。しかし「仕事が3年続かない」という言葉を検索窓に入れて検索ボタンを押してみても、そのことを責めるネガティヴなページしか掛かってこない。何だか釈然としない。同じ仕事にずっと打ち込み続けることを皆賞賛している。コロコロと仕事や住処を変えたとしても社会から締め出されずに豊かに生きられる、という生き方のロールモデルは、どこかにきっとある気がするのだけれど。

ずっと逃げ道をチラチラ見ながら、夢に挑戦していきやすw