おおかみこどもの雨と雪

を旦那さんが地上波で見ている。

おおかみこどもの雨と雪(本編1枚+特典ディスクDVD1枚)

私はこれを、知人の好意で公開当初の試写会で見たのだが、一緒に見に行った当時の恋人にかなり尊大で白ける感想を漏らしたことを思い出す。

「この映画は母親の母性を過大に神聖なものとして描いている。母親は自己犠牲的で奉仕的、という紋切り型の母性神話を現代の物語として描きなおすことで、女性は生来奉仕的な存在なのだ、そうあるべきだというイデオロギーを現代日本の女性に押し付けている。そのような押し付けがましい母性礼賛が女性を檻に閉じ込める」

みたいな。

か、かわいくね〜。

お前の批評自体が紋切り型だよ、みたいな。

しかし、今改めて見てみても、なんだかいい気分はしない映画だった。男だけが社会の柵から旅立つことができ、女は格闘しながら社会に飲み込まれていく、という感じがして、いやだ。

母親になって子供の巣立ちを経験した人は、この母親の苦労や苦悩を感慨深く温かく眺められるのだろうか。未だ母になることを知らない私には「シングルマザーってのは損だなオイ」と寂しい感想しか抱けない。

旦那さんはいう。自分の母親もシングルマザーで、自分と弟が激しい喧嘩をした時、こうだったと思うよ、と。聡明で努力家のシングルマザーに育てられた、優しくて自立心のあるこの人が、母親になる未来が来ることはない。私も、お義母さんの経験をそのままなぞり、心境を理解することはできないだろう。

でもなんかやっぱり、男の描く女は理想とリアリティのバランスが偏っている場合が多くて、女としては共感できないな。女の描く男も然り。現物を真剣に観察していないから穴だらけの異性像になり、その穴を妄想と理想で埋めて提出する。結果、現実味のない人物像になり、謎の多いファムファタールやありえない聖母像、薄気味悪い睦言まみれのジゴロが生み出されるのだろう。

「サマー 500日の彼女」のサマーもそうだった。私は、ペドロ・アルモドヴァル以外の男が描く女に未だリアリティを感じたことはないぞ。

こんなものばっかり世の中にあふれているから、女もそれが努力目標だと勘違いしてしまう。若い女がみんなアリエナイ漫画巨乳に本気で憧れ始める。私は、半ば本気でそう思っている。

だから、その年で田嶋陽子気取りかよ、と言われようとも、やっぱりこういう批判はし続けないといけないと思うんだよなぁ。

旦那さんには言わないけど。

お義母さんは多分雨と雪の母親を地でいった人なんだと思う(自由意志で)から、この映画のイデオロギーを批判することでお義母さんに砂をかけるようなことはしたくないのだ。ふくざつ。