手放してみられれば

喧嘩して家を飛び出してきてしまった。

もともと、一人で目的もなく過ごすことが平気なのだ、私は。ぼんやりと夢想して、あっという間に1日が過ぎる少女時代だった。こんな時間にカフェバーでこうして当て所なさを露呈しながら座っていても、何も気にならない。 人目を気にする程度の常識を持った私 という皮を一枚脱ぎ捨てたようで心が軽い。ぼんやりと取り留めもないこと考え続ける。

人と話す間も惜しんでゲームをし続ける先輩には、「そうやって一度きりの人生の大事な時間を『暇つぶしゲーム』に費やして生きていくんだね」と内心で嫌味を垂れているものの、実は最近、夢想ばかりで人生を終えるのも悪くないのではないかという気持ちも湧いてきている。

現実は厳しすぎる。

夢想の世界は平和で魅力に満ちていて、私に優しい。誰だかが、「セックスはオナニーのオカズ」と言っていた。革命的な逆説だと思う。いいなと思う男とお近づきになって、二人で出かけ、隣り合う席で距離を探り合い、ノンバーバルな合図でもってお互いの服に手をかける。

セックスの過程で一番美しく麻薬的なのはここまでだ。あとは、憧れていた男の荒い鼻息や、最も萎える「ええのんか?」のセリフ、理想と違う体の重ね方に幻滅するだけ。滞りなくことをし果せるために多少の演技を散りばめ、どことなく疲れながらその場を終える。

だから、長く愛する気もない相手に欲情してしまったら、妄想で何度もなんどもエンドレスに「理想のセックス」を繰り返せばいいのだ。頭の中は誰にも縛れないし、なんでも仕放題。現実よりはるかにコスパが いいではないか。

もしそれで一生が終わったとしても、「セックスなんて、所詮オナニーのオカズだから」と言い切れる精神を持っていたのなら、その人生は幸せそのもの。

愛する人を見つけた、と有頂天になって結婚したが、そうしなかった場合の人生を、今でも時々夢想する(今週のお題タラレバに寄ってきてしまったがこんな記事ではまさか参加できない^_^;)。

三年足らずで仕事を逃げ出し、向かった沖縄。当て所なく過ごした一ヶ月。好きな小説を買って読み、誘われるがままにダイビングをし、一人でピザ屋台で飲み、一期一会の下らない会話を続けた。嵐の夜には布団にくるまって、時間も決めず明日も気にせず延々自分と向き合った。

なぜお前は逃げ出したのか?

なぜお前は続けられないのか?

なぜお前はここにいるのか?いつまでいるのか?何がしたいのか?それと、何がしたくないのか?

いくらでも考えつくだけ考えて、紙に書き留めて、泣きながら寝た。車も使えないのに路線バスで一人海に行き、誰もいない海岸で日がな一日考えた。嵐の中ビーチへ行き、波ではなく濁った雨でびしょ濡れになって震えながら帰った。

ああいう生活をもう一度できたら、と夢想する。人間関係を壊し、貯金を使い込む背水の陣とは分かっている(けれど、贅沢とは思わない。リスクを負っているならば)。それだけの代償を払って、私は私の人生を手に入れた。

今は確かにリスクがない。しかし立ち止まって考えることも出来ないこの状況が、果たして正常なのだろうか。今持っている色んなものを落とさないように全てをうまく抱えながら、誰にもぶつからないように気を遣いながら、定刻通りの列車で定刻通りに進んでいく今のこの状況が。

1日せいぜい30分のまとまった自由時間だけで、一体人生を見直せるのだろうか。細切れの10分15分で何ができる。

せっかく餓えのない国で、なんとか生きていける程度に育て上げてもらった。それでもなお「立ち止まっては終わり」とばかりにセコセコ働き続ける理由って、なんなのだろうか。立ち止まらずにいる理由って、なんなのだろうか。

気にはなるけど、明日も仕事がある。そろそろ帰って、険悪な中でも枕を並べて寝て、明日に備えねば。冗談みたいだが実際今はそんな思考だ。常識に毒されている。

僕のピアノコンチェルト』で、こんなセリフがあった。

「迷った時は、大切なものを手放してみろ」

OL生活に疲れ、考える時間(すなわち気力)を失った私には、この言葉だけが一筋の光だ。

それに夫が同意してくれるかどうか。夫を手放すまでの気持ちは、今のところない。これが飛び立てない風船のレトリックだろう。