ビッグイシュー

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世の中は歪んでいる。とてつもなくイビツに、途方もなく大きく。イビツさは個性で、必ずしも悪じゃない。しかし、寒空の下ビッグイシューを掲げながら何かの本を真剣に読んでいる人、その前を素通りする大勢の人波を眺めた時、イビツさが悲しく、苛立たしくなる。

炎天下の淀屋橋でひょろ長い若者からビッグイシューを買い求めた時の、あの、助け舟を見つけた漂流者のような笑顔と、思いの外大きかった「ありがとうございます!」の声が頭から離れない。

私の父親は少し変わった人で、NPO支援やボランティア活動をしているわけでもないのに、勤務先近くの公園のホームレスの人と仲良くなって、よく、使わなくなった小型家電やカイロを差し入れては長い「ついでの立ち話」をしていたと言う。

公園の景観上の理由から多くのテントが強制撤去され、ほとんどの仲間が一時支援施設に入った。だが、自立は短期間で実現されるものではなく、貧困ビジネスの餌食になったり、また別の場所でテントを張ったり、アパートを借りながらホームレス時代よりも貧しく金に追われる生活を余儀なくされるものも多かったと言う。

名古屋・白川公園テント撤去:路上生活者「最悪の選択」−−溝、埋まらぬまま/愛知[毎日他]藤井フミヤ・・・ なるほど

炎天下の淀屋橋を思い出す。 誰もが自分の状況を悲嘆しているとは限らない。それが立派な彼らの仕事で、安易な同情はエゴだと言う向きもあるだろう。

だけれど、私はこの想像力を捨てたくない。底冷えする冬の寒さの中でまんじりともせず立ち尽くす時の身の震え、そこに自分はいないかのような人波の無情感(ティッシュ配りのバイトだってそうだろう)、見知らぬ人から無条件に与えられる好意のあたたかさ。

この想像力を欠いて、グローバリゼーションの中の分業化は進んでいく。地球の裏側で生み出された製品を使いながら、地球の裏側の悲しみなど他人事のようにして。