難しいままに -まとめサイトについて

「分かりやすさ」を疑う

仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』第8刷オビより

情報の嵐の中で

私は気が多い性質なのか、毎日何十もの疑問を抱いては忘れていく。「明治末期あたりの人々はどんな頻度で洗濯していたのか?」「紙のスケジュール帳と電子手帳のどちらが総コストで『エコ』なのか?」など。事実に辿り着くのに時間がかかりそうな疑問は、浮かんでも、雑事に紛れて消えていってしまう。これは誰にでも日常起こっていることなのだが、IT技術革新の凄まじい勢いとともに、疑問と忘却の流れも早瀬となっていっているのではないだろうか。

かつて私が新米プログラマーだった頃、Webページのユーザビリティについて上司がこんなことを教えてくれた。

「リンククリックからページ表示まで、3秒かかるとユーザはイライラするんだよ」

多分このような記事を参照されていたのだと思う。記事によると、ページ読み込みにかかる時間の希望は「2006年の調査では4秒」だったのが、2009年の調査では半分の2秒。2017年の現代は、どうだろうか…。技術革新は、「情報にアクセスする」ための忍耐力を、かようにまで弱らせてしまった。

フランスで「仕事の連絡を絶つ権利」が認められるようになったというが、本当にいつでもどこでもネット媒体とその向こうにいる無数の人々と繋がっていて、意識して断たない限り私たちは延々とその流れに流されていってしまう。朝起きて、学校なり会社なりへ行き、帰宅し、家事雑事を済ませて寝るまでの間のわずかな時間は、スマホやヘッドラインニュースが垂れ流す様々の情報に奪われてしまい、自らわざわざ複雑な情報取得のルートを選ばなくなっている。そうして、与えられない事柄は知らないまま、昨日とさして変わらない明日がー思考停止の日常が流れていく。

まとめサイト』-早瀬に流され掴むワラ

忍耐力のなくなった世の中にまず現れたのは、現代的な集合知の代名詞とも言える WikipediaWikipedia集合知と呼べるものか、集合知の出来としてどうなのか、知ったかぶり素人の私には分からないが、こんな記事もある。

http://www.dhbr.net/articles/-/3181:embed:

私が大学生の時分にはすでに Wikipedia は「ちょっとした調べ物に格好のツール」として浸透し始めていて、教授達は呆れ顔で「Wikipedia はレポートの参考文献には入らない!」と学生達の低リテラシーをモグラ叩きしていた。Wikipedia の登場で図書館利用者の数がどれだけ減っただろうか(知らない)。わざわざ人に訊かなくても、本を探して開かなくても、全てはネットに詰まっている。GoogleYahoo! といった検索サイトとのコンビネーションもあって、巷には若い「なんでも博士」があふれ返るようになった。

検索さえすれば大体のことは分かる」という認識が、このあたりから広がっていったんじゃないかな、と思う。

それから10年はとうに過ぎ、アカデミックな機関にも随分とクラウドソースが増えた。日記サイトは無料ブログに、BBS は TwitterInstagram などの公開SNSに変わった。Wikipedia は相変わらず集合知としての不動の地位を保っている(私の感覚です)が、Google検索結果の様相は少し変わった。まとめサイト」が増えた。圧倒的に増えた。

Wikipedia より平易で読みやすく、個人ブログよりも色々な人の意見が見られて、なんだか信頼性があるようである。 とは賢明な人々は決して思うまいが、しかしその平易さ、即時性、視覚的インパクトは、思わず一通りは流し読みしてみようか、と思わせるほどスッと頭に飛び込んでくる。これが、これこそが、現代人の心を忙しく、思考力を貧相にしているものの好例だと私は思う。

人間は本能の不完全さゆえに、知覚から行動に移る間に、ためらいと模索のための小休止を必要とする。この小休止こそが理解、洞察、想像、概念の温床であり、それらが創造的プロセスの縦糸となり横糸となる。休止時間の短縮は、非人間化を促す。

ネットリテラシーに自信のある人ほどまとめサイトというものを軽視しているんじゃないかと思うが、私はエリック・ホッファーのこの言葉を思い出す。誰が何の意図で編集したものか考えるようなリテラシー以前に、「自分が本当は何を見、何を考えようとしていたのか」に意識をやることもできなくなっているのではないか、と。ほんのちょっとの空き時間に読むだけ=思考する時間が奪われる、ニュースでやってたことの概要を見るだけ=思考能力が奪われる だと思う。 (もちろん、まとめサイトと称しながら難解なテーマを丁寧に扱っていたり、共有ブックマークのように簡素で便利な作りのものも見かける。でも全然主流じゃないのでこの際捨象しちゃいます。)

編集された事実

「時間泥棒」という点だけ取り上げると、まとめサイトに限った問題ではなくなってしまう気もするので、リテラシーに関わる部分についても触れておく。

リテラシーの人をさらなる思考停止に陥れる卑俗媒介は、まとめサイト以前から腐るほどあった。スポーツ新聞や女性週刊誌は皇族だろうが政治家だろうが芸能人だろうが事件被害者だろうが、あることないこと陰謀論まで書き立ててセンセーショナルな見出しの吊り下げ広告で人目を引いてきた。

まとめサイトはそれら既存媒体とは異なる(思考停止への)アプローチを持っている。すなわち、「虚構の集合知」である。 2ちゃんねるツイッターからの多引用で形成されるそれらの記事は、「不特定多数からの」「無作為抽出」による意見集約であるかのような体を取る場合がほとんどだ。Wikipedia と異なり特定の個人が記事の編集を行っているにも関わらず、その事実は、匿名意見を幾重にも塗り重ねることによって、隠れ去ってしまう。 「透明な主体」などあり得ないはずなのに、記事の編集者は透明感してしまうのである。

さらにそれらは日々不特定多数の匿名ユーザによって大量に作成され、TwitterなどのSNSを通じて個々のコンテンツは拡散されていく。その過程で、広告収入目的のコピーサイトが次々生まれる。 似た内容の記事がそこここにあふれ、それが検索時に沢山かかれば、より信憑性が高く支持率も高いように思われる。分かりやすい表現、キャッチーなメッセージ。歴史認識であれ、芸能スキャンダルであれ、誰かの手が加えられている、という認識もないまま、情報は我々の中に無意識に蓄積される。

テッサ・モリス=スズキは『過去は死なない』の中でメディアと歴史の関係を洗い直し「歴史に対する真摯さ」を全ての人間に対して求めた。また無政府的な媒介としてのWWWに「より深く情報に関われる」可能性を指摘したが、私の目のすみには、暗い潮流がよぎるように思われてならない。