「卒業」はいらない、「円満退社」がほしい
とりあえず、継続と書き切ることへの自信がないので、毎日なんでもいいから更新することにする。
今日は「今週のお題」にかけてみる。
私の経歴は少しだけ変わっていて、まず高校を卒業できていない。2ヶ月で中退したのだ。理由は大それたものではないのでここでは省く。
その後1年ほどの引きこもりニート生活を経て、大検スクールに通うようになる。初めの1年は外へ出る練習に費やした。次の1年で大検取得、3年目で大学の受験勉強をして、京都の某私大に入学した。卒業式に当たるものはなかった。
ヒキニートの経歴が示すとおりのコミュ障だったが、下手なりに努力した結果大学では奇跡的に友達ができ、人生初の彼氏もでき、人並みやや下くらいの人生経験をしてすんなりと卒業した。就活もして、大阪の中小SIerに就職した。
ところがその就職先を、2年1ヶ月で逃亡する。逃げるように辞めたのではなく、本当に逃げた。しかも、家族にも何も告げず突然の失踪だったので、捜索願も出された。高校中退が最大の親不孝だと思っていたら、成人後にこんなことをしでかしてしまった。
失踪中、人生がうまく続けられない理由をずっと考えていた。自分に働くのはまだ早すぎたと思った。
その翌年、大学院に社会人入学した。十代の頃からやりたかった民俗学を学ぶためだった。なぜか旧帝大に入学できたせいか、周囲の祝福がすごかった。
ところが、そこで出会って付き合った10歳年上の研究員にむちゃくちゃに束縛され、監視され、挙げ句のはてに刺されそうになり、恐ろしさから大学院に出入りできなくなった。1年の休学期間を経て中退した。
それからしばらく荒れた生活を続けたのち、なんだかんだで今の夫と出会い、リハビリで始めた短期派遣の派遣元から長期派遣のお誘いをもらい、結婚し今に至る。
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つまり、私は卒業と相性がよくない。
「決められた課程を修められなかったこと」自体には、なんの後悔もない。履歴書上の傷なんて、話のネタになっていいじゃん程度に思っている。学びたくないもの、いたくない場所は早く去るに限るし、劣等生なりに、全ての過程で学びはあったのだし。
ただ、「円満にその場を去れなかったこと」には、深い後悔がある。挫折してその場所を去ると、その場所に帰りづらくなる。お世話になった方々や仲の良かった友達と、心理的な距離が生まれたのは、辛かった。
思うに、「卒業」という言葉は「決められた課程を最後まで修めたこと」だけを表しているのではなく、「円満にその場所を去れたこと」も意味している。その2つはセット購入しかできないようだ。私は、卒業はいらないけれど、円満にその場所を去る「円満退社」のようなものは、やっぱりほしい。
アイドルがグループを去ることを卒業と呼んでいるけれど、あれも実質的には「円満退社」をアピールしたいのかな、と思う。修めるべき課程が決められているわけでもなく、自由意志で決めるのに「卒業」なんて言葉を使うのは、不義理を犯した訳ではないのよ、というメッセージなんじゃないだろうか。
自分の人生を振り返りながら、なんとなくそんなことを考えた。
私は卒業に向いてなかった。 これから社会人であり続けるだろうから、卒業とはますます縁遠くなるだろう。せめて、円満退社のコツだけ考えておきたいものだ…。
ハルオサンがんばれ
すごい麻薬的なブログを見つけた。
今人気がうなぎのぼりらしい。頷ける。
自分の知らない厳しい世界を必死で生き抜いてきた人がいるんだ…しかも、元コミュ障なのに自分の努力だけでこんなに人を楽しませることができるようになったなんてすごい…という感動。
とはいえ、実は人生のそこここで、ハルオサンやハルオサンの関わってきた狂った世界の方々とは何度もすれ違っている。みんなそうだろう。深夜コンビニの駐車場でたまっている子供の群れ、平気で集団万引きする家族、中卒でマルチ商法を始めた同級生…。関わったら抜けられないのが分かっているから、関わらないようにしてただけ。
彼らの人となりにどこか好奇心を持ちながら、見えないフリして日の当たる道を歩いてきただけ。
私も、高校中退したあとの1年間はドン底で、自ら選んだ道とはいえお先真っ暗だったし、おかしな勧誘があれば引っかかっていたかも知れない。私も、コミュ障じゃ生きていけないと思って、階段上るだけでも息切れするのに武道系の部活に無理に入部したりした。私も、必死で這い上がってきたつもり。
だから、今の(派遣だけど)旦那さんがいて、持ち家があって、そこそこ楽しい生活ができている状況ってのは、奇跡なんだと考えている。同じように頑張っても、ほんの少しの運の差で、這い上がれずにいる人たちを見てきているから。
ハルオサンのブログは、異世界のようでありながら、誰にとっても実は他人事ではない世界を描いている。だから読まずにいられない。そんな中を必死で生き抜いてきていながら謙虚なハルオサンの今の境遇には、誰も同情せずにはいられないだろう。
ハルオサン、がんばれ。
何をかわからないけど、がんばれ。
本、出しちゃえ。今差し伸べられている手は、今までのとは違うぞ。どれでもいいから掴むんだ。
と、前のめりで応援している。
筆で食べていくために
気になった記事をまとめておくとこ。
かなりありがたい、業界人による HOW TO 系。
わりと現実的というか、「稼げるライター」になるためのステップが分かりやすい。
耳が痛い話。多分私はほっといたら「文章が“やたら”上手くて稼げないライター」になるだろうな、間違いなく。上手い と 面白い の違いってむずかしい。
単価を上げる
単価を上げる=得意分野を広げる
成功例
全力疾走勝ち組系
所感
誠実に仕事をこなし、失敗例をよく観察することで改善努力の方向を定める。真面目さと分析力がセルフブランディングに繋がり、名うての無名ライターになるんだなぁ。頭が下がる。。
人生経験がモノを言うエキサイティングな内容も、感情の起伏が少なめの文体も、ドンドン読み進めさせられて勉強になる。
文体に自己主張が少ないのも、多分売れる理由の一つなのかなぁ。ご本人は「いつまで経っても文章がうまくならない」と書いてらっしゃるが、その自己評価の控えめさが過剰な自己表現を抑制していて良いのかも。もし本当に下手だとしても、文体に過度のこだわりがないから「文章が下手だけど稼げるライター」という名瀬さんの分類に当てはまると思う。
試してみた系
スキル感
今までブログやNaverまとめて何度かバズらせた程度の実力
一応仕事でちゃんとした商業ライティングをやったこともあり、一応物書きの端くれ
工夫
文字単価で計算して0.7円以下は目もくれません。
自分の得意ジャンルと経験だけでも書いておくと、このようにお仕事が勝手に振ってくる事があります
やはり、稼ぐなら文章の安売りをしてはいけませんね。
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流転の先に
人生は、やり残しや後悔を一つずつ拾い集めてやり直すための時間じゃない。なのに人は、人生に行き詰まるとなぜか、かつて進みたかったあの道に、かつて諦めたあの夢に、もう一度改めて挑戦してみようと思い立つ。 やり直すことで成功するのだろうか。成功はせずとも、「改めて挑戦した」という気持ちが人生を豊かにするのだろうか。
ベン・スティラーの『LIFE』を見ながら、そんなことを徒然に思った。
LIFE自体はとても好きな映画だ。妄想と現実のあわいが圧倒的スケールの映像美で描かれ、「妄想だろうが現実だろうが、自分の目で見た世界こそ全て」なんだと感じさせられ、妙に勇気がわく。
しかし、人生の岐路を自ら作り出そうとしている中で見てみたら、なんだか勇気以上の感慨を得た。
ウォルターが「ずっと一歩踏み出せずにいた自分」「あの日旅に出られなかった自分」をやり直す時、そのやり直しのゴールはショーン・オコンネルという「圧倒的な権威」からの承認に据えられている。しかも、何を承認されるかというと、やり残したまま進んだ方の、取り返しのつかない現実の人生だ。結局のところ、今までと違う何かに挑戦することは、今までの人生への肯定感を目的としているのだろうか。
それにしても、一体偶然に恵まれずショーン・オコンネルにも辿り着けずに終わっていたら、ウォルターの精神はどこに帰着したのだろう、と思う。大抵の人は、挑戦したからといって憧れの誰かになんて会えない。
「あの日旅に出られなかった自分」を、人は無数に持っている。みんな、苦悩の中で人生を終えないために必死で現在を肯定するのだが、どうかしてその先に続く未来が愛せなくなり、あの日選ばなかった道を探そうとし始める。私の友人たちも、30歳を目前にして、次々と無謀な旅に出た。漫画家になる道、女優になる道、音楽で食べて行く道、フランスで暮らす道。安定した職を捨てて、次々と大海へ漕ぎ出していく。成功したものもいれば、未だに芽の出ないものもいる。そして私も、その仲間に加わろうとしている。
私はウォルターのように、16年間も同じ仕事に打ち込み続けた経験はない。
それどころか、義務教育を終えて以来、大学を4年で卒業した以上のことは何もしていない。部活もアルバイトも2年と続かず、初めての就職先は3年保たず、思い切って大学院に社会人入学なぞしてみるも、ストーカーがどうのと言って中途挫折。ちなみに高校だって3年間通えていない。挫折するその度に社会不適合者の烙印を押されて意気消沈した。
そうは言っても、書くことだけはずっと続けている。 別に成果も出さず報酬も得ていないが、場所を変え手段を変え、ずっとこんなことを続けている。仕事でもドキュメント整備のプロになってしまった。ドキュメント軽視の風潮が未だに強いSE社会で、資料作成では常に一定の評価を得ている。
ずっと夢見ていた。いつか自分の筆一本で生きていくことを。そしてずっと挑戦を拒んできた。あまりに夢物語で人に言うのも恥ずかしかった。
今のところはまだ誰が見てくれるでもないこのブログに書くことさえ、ためらわれる。面と向かって人に言う時は、足が震え心臓が飛び出そうになる。昔からの夢に挑戦することは、今までの人生の「やり直し」ではないかも知れない。自分とまともに向き合おうとする時、それはいつでも人生初めての挑戦なのだろう。
なんだかチープに終わったな。
こんなこと書きながら、実はどこかで「仕事が3年続かなくても、何も欠陥ではないのでは?」と思っている。ここまできたら中途挫折の因縁を持って生まれた自分を受け入れざるを得ない。しかし「仕事が3年続かない」という言葉を検索窓に入れて検索ボタンを押してみても、そのことを責めるネガティヴなページしか掛かってこない。何だか釈然としない。同じ仕事にずっと打ち込み続けることを皆賞賛している。コロコロと仕事や住処を変えたとしても社会から締め出されずに豊かに生きられる、という生き方のロールモデルは、どこかにきっとある気がするのだけれど。
ずっと逃げ道をチラチラ見ながら、夢に挑戦していきやすw
中身のある記事を
書きたいと思っているのだけれど、まとまった時間が取れない怒りでも抱えているらしい、私は。
コツコツ少しずつができないので、「リンクしたい記事まとめ」とか、分割して構成できないのだ。
電車通勤も乗り換えがあるので15分15分の細切れで、せめて一時間まとまって時間がほしいと思う。
贅沢かな。
手放してみられれば
喧嘩して家を飛び出してきてしまった。
もともと、一人で目的もなく過ごすことが平気なのだ、私は。ぼんやりと夢想して、あっという間に1日が過ぎる少女時代だった。こんな時間にカフェバーでこうして当て所なさを露呈しながら座っていても、何も気にならない。 人目を気にする程度の常識を持った私 という皮を一枚脱ぎ捨てたようで心が軽い。ぼんやりと取り留めもないこと考え続ける。
人と話す間も惜しんでゲームをし続ける先輩には、「そうやって一度きりの人生の大事な時間を『暇つぶしゲーム』に費やして生きていくんだね」と内心で嫌味を垂れているものの、実は最近、夢想ばかりで人生を終えるのも悪くないのではないかという気持ちも湧いてきている。
現実は厳しすぎる。
夢想の世界は平和で魅力に満ちていて、私に優しい。誰だかが、「セックスはオナニーのオカズ」と言っていた。革命的な逆説だと思う。いいなと思う男とお近づきになって、二人で出かけ、隣り合う席で距離を探り合い、ノンバーバルな合図でもってお互いの服に手をかける。
セックスの過程で一番美しく麻薬的なのはここまでだ。あとは、憧れていた男の荒い鼻息や、最も萎える「ええのんか?」のセリフ、理想と違う体の重ね方に幻滅するだけ。滞りなくことをし果せるために多少の演技を散りばめ、どことなく疲れながらその場を終える。
だから、長く愛する気もない相手に欲情してしまったら、妄想で何度もなんどもエンドレスに「理想のセックス」を繰り返せばいいのだ。頭の中は誰にも縛れないし、なんでも仕放題。現実よりはるかにコスパが いいではないか。
もしそれで一生が終わったとしても、「セックスなんて、所詮オナニーのオカズだから」と言い切れる精神を持っていたのなら、その人生は幸せそのもの。
愛する人を見つけた、と有頂天になって結婚したが、そうしなかった場合の人生を、今でも時々夢想する(今週のお題タラレバに寄ってきてしまったがこんな記事ではまさか参加できない^_^;)。
三年足らずで仕事を逃げ出し、向かった沖縄。当て所なく過ごした一ヶ月。好きな小説を買って読み、誘われるがままにダイビングをし、一人でピザ屋台で飲み、一期一会の下らない会話を続けた。嵐の夜には布団にくるまって、時間も決めず明日も気にせず延々自分と向き合った。
なぜお前は逃げ出したのか?
なぜお前は続けられないのか?
なぜお前はここにいるのか?いつまでいるのか?何がしたいのか?それと、何がしたくないのか?
いくらでも考えつくだけ考えて、紙に書き留めて、泣きながら寝た。車も使えないのに路線バスで一人海に行き、誰もいない海岸で日がな一日考えた。嵐の中ビーチへ行き、波ではなく濁った雨でびしょ濡れになって震えながら帰った。
ああいう生活をもう一度できたら、と夢想する。人間関係を壊し、貯金を使い込む背水の陣とは分かっている(けれど、贅沢とは思わない。リスクを負っているならば)。それだけの代償を払って、私は私の人生を手に入れた。
今は確かにリスクがない。しかし立ち止まって考えることも出来ないこの状況が、果たして正常なのだろうか。今持っている色んなものを落とさないように全てをうまく抱えながら、誰にもぶつからないように気を遣いながら、定刻通りの列車で定刻通りに進んでいく今のこの状況が。
1日せいぜい30分のまとまった自由時間だけで、一体人生を見直せるのだろうか。細切れの10分15分で何ができる。
せっかく餓えのない国で、なんとか生きていける程度に育て上げてもらった。それでもなお「立ち止まっては終わり」とばかりにセコセコ働き続ける理由って、なんなのだろうか。立ち止まらずにいる理由って、なんなのだろうか。
気にはなるけど、明日も仕事がある。そろそろ帰って、険悪な中でも枕を並べて寝て、明日に備えねば。冗談みたいだが実際今はそんな思考だ。常識に毒されている。
『僕のピアノコンチェルト』で、こんなセリフがあった。
「迷った時は、大切なものを手放してみろ」
OL生活に疲れ、考える時間(すなわち気力)を失った私には、この言葉だけが一筋の光だ。
それに夫が同意してくれるかどうか。夫を手放すまでの気持ちは、今のところない。これが飛び立てない風船のレトリックだろう。