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ハルオサンがんばれ

すごい麻薬的なブログを見つけた。

今人気がうなぎのぼりらしい。頷ける。

自分の知らない厳しい世界を必死で生き抜いてきた人がいるんだ…しかも、元コミュ障なのに自分の努力だけでこんなに人を楽しませることができるようになったなんてすごい…という感動。

とはいえ、実は人生のそこここで、ハルオサンやハルオサンの関わってきた狂った世界の方々とは何度もすれ違っている。みんなそうだろう。深夜コンビニの駐車場でたまっている子供の群れ、平気で集団万引きする家族、中卒でマルチ商法を始めた同級生…。関わったら抜けられないのが分かっているから、関わらないようにしてただけ。

彼らの人となりにどこか好奇心を持ちながら、見えないフリして日の当たる道を歩いてきただけ。

私も、高校中退したあとの1年間はドン底で、自ら選んだ道とはいえお先真っ暗だったし、おかしな勧誘があれば引っかかっていたかも知れない。私も、コミュ障じゃ生きていけないと思って、階段上るだけでも息切れするのに武道系の部活に無理に入部したりした。私も、必死で這い上がってきたつもり。

だから、今の(派遣だけど)旦那さんがいて、持ち家があって、そこそこ楽しい生活ができている状況ってのは、奇跡なんだと考えている。同じように頑張っても、ほんの少しの運の差で、這い上がれずにいる人たちを見てきているから。

ハルオサンのブログは、異世界のようでありながら、誰にとっても実は他人事ではない世界を描いている。だから読まずにいられない。そんな中を必死で生き抜いてきていながら謙虚なハルオサンの今の境遇には、誰も同情せずにはいられないだろう。

ハルオサン、がんばれ。

何をかわからないけど、がんばれ。

本、出しちゃえ。今差し伸べられている手は、今までのとは違うぞ。どれでもいいから掴むんだ。

と、前のめりで応援している。

筆で食べていくために

気になった記事をまとめておくとこ。


かなりありがたい、業界人による HOW TO 系。

わりと現実的というか、「稼げるライター」になるためのステップが分かりやすい。

耳が痛い話。多分私はほっといたら「文章が“やたら”上手くて稼げないライター」になるだろうな、間違いなく。上手い と 面白い の違いってむずかしい。


単価を上げる

単価を上げる=得意分野を広げる


成功例

全力疾走勝ち組系

所感
誠実に仕事をこなし、失敗例をよく観察することで改善努力の方向を定める。真面目さと分析力がセルフブランディングに繋がり、名うての無名ライターになるんだなぁ。頭が下がる。。

人生経験がモノを言うエキサイティングな内容も、感情の起伏が少なめの文体も、ドンドン読み進めさせられて勉強になる。

文体に自己主張が少ないのも、多分売れる理由の一つなのかなぁ。ご本人は「いつまで経っても文章がうまくならない」と書いてらっしゃるが、その自己評価の控えめさが過剰な自己表現を抑制していて良いのかも。もし本当に下手だとしても、文体に過度のこだわりがないから「文章が下手だけど稼げるライター」という名瀬さんの分類に当てはまると思う。

試してみた系

www.cyber-idlers.com

スキル感

今までブログやNaverまとめて何度かバズらせた程度の実力

一応仕事でちゃんとした商業ライティングをやったこともあり、一応物書きの端くれ

工夫

文字単価で計算して0.7円以下は目もくれません。

自分の得意ジャンルと経験だけでも書いておくと、このようにお仕事が勝手に振ってくる事があります

やはり、稼ぐなら文章の安売りをしてはいけませんね。

流転の先に

人生は、やり残しや後悔を一つずつ拾い集めてやり直すための時間じゃない。なのに人は、人生に行き詰まるとなぜか、かつて進みたかったあの道に、かつて諦めたあの夢に、もう一度改めて挑戦してみようと思い立つ。 やり直すことで成功するのだろうか。成功はせずとも、「改めて挑戦した」という気持ちが人生を豊かにするのだろうか。

ベン・スティラーの『LIFE』を見ながら、そんなことを徒然に思った。

LIFE自体はとても好きな映画だ。妄想と現実のあわいが圧倒的スケールの映像美で描かれ、「妄想だろうが現実だろうが、自分の目で見た世界こそ全て」なんだと感じさせられ、妙に勇気がわく。

しかし、人生の岐路を自ら作り出そうとしている中で見てみたら、なんだか勇気以上の感慨を得た。

ウォルターが「ずっと一歩踏み出せずにいた自分」「あの日旅に出られなかった自分」をやり直す時、そのやり直しのゴールはショーン・オコンネルという「圧倒的な権威」からの承認に据えられている。しかも、何を承認されるかというと、やり残したまま進んだ方の、取り返しのつかない現実の人生だ。結局のところ、今までと違う何かに挑戦することは、今までの人生への肯定感を目的としているのだろうか。

それにしても、一体偶然に恵まれずショーン・オコンネルにも辿り着けずに終わっていたら、ウォルターの精神はどこに帰着したのだろう、と思う。大抵の人は、挑戦したからといって憧れの誰かになんて会えない。


「あの日旅に出られなかった自分」を、人は無数に持っている。みんな、苦悩の中で人生を終えないために必死で現在を肯定するのだが、どうかしてその先に続く未来が愛せなくなり、あの日選ばなかった道を探そうとし始める。私の友人たちも、30歳を目前にして、次々と無謀な旅に出た。漫画家になる道、女優になる道、音楽で食べて行く道、フランスで暮らす道。安定した職を捨てて、次々と大海へ漕ぎ出していく。成功したものもいれば、未だに芽の出ないものもいる。そして私も、その仲間に加わろうとしている。

私はウォルターのように、16年間も同じ仕事に打ち込み続けた経験はない。

それどころか、義務教育を終えて以来、大学を4年で卒業した以上のことは何もしていない。部活もアルバイトも2年と続かず、初めての就職先は3年保たず、思い切って大学院に社会人入学なぞしてみるも、ストーカーがどうのと言って中途挫折。ちなみに高校だって3年間通えていない。挫折するその度に社会不適合者の烙印を押されて意気消沈した。


そうは言っても、書くことだけはずっと続けている。 別に成果も出さず報酬も得ていないが、場所を変え手段を変え、ずっとこんなことを続けている。仕事でもドキュメント整備のプロになってしまった。ドキュメント軽視の風潮が未だに強いSE社会で、資料作成では常に一定の評価を得ている。

ずっと夢見ていた。いつか自分の筆一本で生きていくことを。そしてずっと挑戦を拒んできた。あまりに夢物語で人に言うのも恥ずかしかった。

今のところはまだ誰が見てくれるでもないこのブログに書くことさえ、ためらわれる。面と向かって人に言う時は、足が震え心臓が飛び出そうになる。昔からの夢に挑戦することは、今までの人生の「やり直し」ではないかも知れない。自分とまともに向き合おうとする時、それはいつでも人生初めての挑戦なのだろう。


なんだかチープに終わったな。

こんなこと書きながら、実はどこかで「仕事が3年続かなくても、何も欠陥ではないのでは?」と思っている。ここまできたら中途挫折の因縁を持って生まれた自分を受け入れざるを得ない。しかし「仕事が3年続かない」という言葉を検索窓に入れて検索ボタンを押してみても、そのことを責めるネガティヴなページしか掛かってこない。何だか釈然としない。同じ仕事にずっと打ち込み続けることを皆賞賛している。コロコロと仕事や住処を変えたとしても社会から締め出されずに豊かに生きられる、という生き方のロールモデルは、どこかにきっとある気がするのだけれど。

ずっと逃げ道をチラチラ見ながら、夢に挑戦していきやすw

中身のある記事を

書きたいと思っているのだけれど、まとまった時間が取れない怒りでも抱えているらしい、私は。

コツコツ少しずつができないので、「リンクしたい記事まとめ」とか、分割して構成できないのだ。

電車通勤も乗り換えがあるので15分15分の細切れで、せめて一時間まとまって時間がほしいと思う。

贅沢かな。

手放してみられれば

喧嘩して家を飛び出してきてしまった。

もともと、一人で目的もなく過ごすことが平気なのだ、私は。ぼんやりと夢想して、あっという間に1日が過ぎる少女時代だった。こんな時間にカフェバーでこうして当て所なさを露呈しながら座っていても、何も気にならない。 人目を気にする程度の常識を持った私 という皮を一枚脱ぎ捨てたようで心が軽い。ぼんやりと取り留めもないこと考え続ける。

人と話す間も惜しんでゲームをし続ける先輩には、「そうやって一度きりの人生の大事な時間を『暇つぶしゲーム』に費やして生きていくんだね」と内心で嫌味を垂れているものの、実は最近、夢想ばかりで人生を終えるのも悪くないのではないかという気持ちも湧いてきている。

現実は厳しすぎる。

夢想の世界は平和で魅力に満ちていて、私に優しい。誰だかが、「セックスはオナニーのオカズ」と言っていた。革命的な逆説だと思う。いいなと思う男とお近づきになって、二人で出かけ、隣り合う席で距離を探り合い、ノンバーバルな合図でもってお互いの服に手をかける。

セックスの過程で一番美しく麻薬的なのはここまでだ。あとは、憧れていた男の荒い鼻息や、最も萎える「ええのんか?」のセリフ、理想と違う体の重ね方に幻滅するだけ。滞りなくことをし果せるために多少の演技を散りばめ、どことなく疲れながらその場を終える。

だから、長く愛する気もない相手に欲情してしまったら、妄想で何度もなんどもエンドレスに「理想のセックス」を繰り返せばいいのだ。頭の中は誰にも縛れないし、なんでも仕放題。現実よりはるかにコスパが いいではないか。

もしそれで一生が終わったとしても、「セックスなんて、所詮オナニーのオカズだから」と言い切れる精神を持っていたのなら、その人生は幸せそのもの。

愛する人を見つけた、と有頂天になって結婚したが、そうしなかった場合の人生を、今でも時々夢想する(今週のお題タラレバに寄ってきてしまったがこんな記事ではまさか参加できない^_^;)。

三年足らずで仕事を逃げ出し、向かった沖縄。当て所なく過ごした一ヶ月。好きな小説を買って読み、誘われるがままにダイビングをし、一人でピザ屋台で飲み、一期一会の下らない会話を続けた。嵐の夜には布団にくるまって、時間も決めず明日も気にせず延々自分と向き合った。

なぜお前は逃げ出したのか?

なぜお前は続けられないのか?

なぜお前はここにいるのか?いつまでいるのか?何がしたいのか?それと、何がしたくないのか?

いくらでも考えつくだけ考えて、紙に書き留めて、泣きながら寝た。車も使えないのに路線バスで一人海に行き、誰もいない海岸で日がな一日考えた。嵐の中ビーチへ行き、波ではなく濁った雨でびしょ濡れになって震えながら帰った。

ああいう生活をもう一度できたら、と夢想する。人間関係を壊し、貯金を使い込む背水の陣とは分かっている(けれど、贅沢とは思わない。リスクを負っているならば)。それだけの代償を払って、私は私の人生を手に入れた。

今は確かにリスクがない。しかし立ち止まって考えることも出来ないこの状況が、果たして正常なのだろうか。今持っている色んなものを落とさないように全てをうまく抱えながら、誰にもぶつからないように気を遣いながら、定刻通りの列車で定刻通りに進んでいく今のこの状況が。

1日せいぜい30分のまとまった自由時間だけで、一体人生を見直せるのだろうか。細切れの10分15分で何ができる。

せっかく餓えのない国で、なんとか生きていける程度に育て上げてもらった。それでもなお「立ち止まっては終わり」とばかりにセコセコ働き続ける理由って、なんなのだろうか。立ち止まらずにいる理由って、なんなのだろうか。

気にはなるけど、明日も仕事がある。そろそろ帰って、険悪な中でも枕を並べて寝て、明日に備えねば。冗談みたいだが実際今はそんな思考だ。常識に毒されている。

僕のピアノコンチェルト』で、こんなセリフがあった。

「迷った時は、大切なものを手放してみろ」

OL生活に疲れ、考える時間(すなわち気力)を失った私には、この言葉だけが一筋の光だ。

それに夫が同意してくれるかどうか。夫を手放すまでの気持ちは、今のところない。これが飛び立てない風船のレトリックだろう。

もしも弟がいなければ

今週のお題「私のタラレバ」


過去をアレコレ後悔することが減った。今が満たされ始めたからだと思う。月並みだけれど、思慮深くて優しい夫に出会えてからは「しあわせ」が相対評価から絶対評価にシフトし、過去や他人と比べる必要が少なくなったのだと思う。

それでも時々、身近な人が新しい世界に飛び込んでいく姿に焦りを感じ、「なぜ私はここに留まっているんだ」と思うことがある。

最近「私もああしていれば…」と思ったのは、1年ほど前。

弟がある小さな文学賞を受賞した時だ。

限りなく誇らしいと同時に、大いに驚きだった。 小さい頃から、絵本も漫画も小説もよく読む文学児童で、小学何年生かで読書感想文コンクールに入賞もし(唯一のささやかな受賞歴だ)、自分は文章を書いて生きていくんだ、と信じていたのは、だ。 かたや弟は小中高とバスケ漬け、運動、筋肉、日々のルーチンこなすの大好き!なスポーツ少年だった。彼が物語を描きたがるとか、ましてや文学の才能があるだなんて周囲の誰も思っていなかった。


それが二年ほど前、突然重いワードファイルを送りつけてきたと思ったら、読んで感想をくれという。賞に出すという。

はじめて読んだ時の感想は、やられた の一言だった。粗削りだけど、骨太な中編ストーリーを描き切る根性、発想の奇想天外さ、キャラクターの妙。

選者も甘くはないだろうし、詰めの甘さが目立つ処女作で受賞はさすがにないだろう と思いつつも、作品の持つ力強いメッセージに素直に惹かれ、心から力になりたいと思った。休日や通勤時間を使って、印刷したその分厚い物語に、赤ペンで沢山書き込んだ。

一年後、並み居る応募作をおさえ弟の作品がその賞を受賞した。そのあたりから、私のメンタルは少しおかしくなった。


「どうして私はチャレンジしなかったんだろう」

しがないOLの日常の、気も狂わんばかりのルーチンの狭間で、何度もそう思った。

今まで何度も小品は書いてきて、その気になればいつでも、どこにでも応募はできたはずだ。個人サイトで数少ない友達に公開したり、文芸スクールに通って寸評を交わしたり、はじめの一歩を踏み出したことは何度でもあった。

でもその度に、「書くことが好きだし、上手いつもり」というたった一つの小さなプライドが、次こそは崩されるのではないかと恐くなり、そそくさと逃げ出してきた。

もし、友達に褒めてもらったあの小品を、どこかに応募していたら。もし、文芸スクールの仲間に「本当に見せたかった」作品を見せていたら。 きっと絶賛の嵐などには見舞われなくて、根本的な欠陥や手癖を指摘されるか、もしくはそもそも相手にすらされなかったかも知れない。

何度も何度も仮定の話を考えるうちに、私と弟との決定的な違いが見えてきた。それは体力でもなく、学歴でもない。読書量でも、文章を書いてきたキャリアでもない。

人からどんなに厳しく言われるとしても、自分を信じて全てをさらけ出す。そのメンタルだ。

弟は、赤だらけで、ところどころ辛辣なコメントが入った原稿を、マジでありがとう、恩に着る と言って受け取った。


平日の昼休み、チェーンの安い喫茶店でコーヒーを飲みながら、自分の書き出した心情を眺め、割と満足している。 思ったことを文章にして、週に一度は公開すること。できていても、いなくても。 そう決めて始めたブログだから。

文章を書いて生きていく。 細く狭い道のり。

先は長いが、まずは人目にさらす練習をしているところ。

もしも弟がいなければ。

私は日向の生活を羨んだり、劣等感を抱かずに済んだ。

もしも弟がいなければ。

私はずっと日陰に隠れながら、太陽なんて知らないフリをし続けていた。

もしも弟がいなければ、私はこの貧相な身体を日の元に曝け出し、羞恥に顔を俯けながら、太陽に導かれて歩き出すこともなかっただろう。


そんなこと言いながら週一投稿すらできてないんだけどね!

お粗末様だぜ。

異性兄弟で面と向かって本音を言うなんてヘドが出る(訳:照れ臭い)からここでいうけど、あんたを誇らしく思うよ。

おめでとう、弟。

これからも頑張れ。

ビッグイシュー

www.bigissue.jp

世の中は歪んでいる。とてつもなくイビツに、途方もなく大きく。イビツさは個性で、必ずしも悪じゃない。しかし、寒空の下ビッグイシューを掲げながら何かの本を真剣に読んでいる人、その前を素通りする大勢の人波を眺めた時、イビツさが悲しく、苛立たしくなる。

炎天下の淀屋橋でひょろ長い若者からビッグイシューを買い求めた時の、あの、助け舟を見つけた漂流者のような笑顔と、思いの外大きかった「ありがとうございます!」の声が頭から離れない。

私の父親は少し変わった人で、NPO支援やボランティア活動をしているわけでもないのに、勤務先近くの公園のホームレスの人と仲良くなって、よく、使わなくなった小型家電やカイロを差し入れては長い「ついでの立ち話」をしていたと言う。

公園の景観上の理由から多くのテントが強制撤去され、ほとんどの仲間が一時支援施設に入った。だが、自立は短期間で実現されるものではなく、貧困ビジネスの餌食になったり、また別の場所でテントを張ったり、アパートを借りながらホームレス時代よりも貧しく金に追われる生活を余儀なくされるものも多かったと言う。

名古屋・白川公園テント撤去:路上生活者「最悪の選択」−−溝、埋まらぬまま/愛知[毎日他]藤井フミヤ・・・ なるほど

炎天下の淀屋橋を思い出す。 誰もが自分の状況を悲嘆しているとは限らない。それが立派な彼らの仕事で、安易な同情はエゴだと言う向きもあるだろう。

だけれど、私はこの想像力を捨てたくない。底冷えする冬の寒さの中でまんじりともせず立ち尽くす時の身の震え、そこに自分はいないかのような人波の無情感(ティッシュ配りのバイトだってそうだろう)、見知らぬ人から無条件に与えられる好意のあたたかさ。

この想像力を欠いて、グローバリゼーションの中の分業化は進んでいく。地球の裏側で生み出された製品を使いながら、地球の裏側の悲しみなど他人事のようにして。